2013年4月8日月曜日

けむる魔都 (2009/12/16)


12月8日 
先週に引き続き、またしても関空10時50分集合。たんぽぽの家から、理事長の播磨靖夫さん、スタッフで今回はプレゼンもする岡部太郎さん,僕のダンスパートナーの伊藤愛子さん、今乗ってる画家の山野将志さん、プレゼン兼山野さんケアの藤井克英さん、美術ワークショップ担当の中井幸子さん、愛ちゃんケアの北野しのぶさんが4階ロビーに集まっている。愛ちゃんのお母さんと送迎の中川さんも。 

12時50分発、上海航空機で出発。機内食のスパゲッティを食べると、あっという間に14時過ぎ(時差1時間)上海着。イミグレーションが少し込んだが無事入国。はじめての中国上陸!イミグレーションの係官は,ちょっと見、無愛想だが,よく見ると憮然とした顔の下に親しみやすい顔が見え隠れしている。僕の前にいた中央アジアらしき人の旅行者のパスポートのビザを寄ってたかってルーペで覗き込んでいるのもちょっと芝居がかった感じで、みんな楽しそう。両替場の人民服みたいなちょっとダボダボの制服を着たガードマンも,聞きもしないのに,僕が持っているスコットランド・ポンドを見て,「それは無理だよ。」と話しかけてくる。人と人の距離が近い感じ。 

上海障碍者連合会国際部のメンバーで通訳を兼ねている聞セイ(女偏に青:ブンセイ)さんと王安さんが迎えにきてくれていた。2時間ほど遅れて,福岡から工房まるの3人がやってくるので,空港内のバーガーキングで待つことに。聞さんは、中国の大学で日本語を学んだ後,岡山へ半年留学したという。半年とは思えないほど、日本語がとても流暢である。「私の名前はブンです。新聞の聞です。」と自己紹介するので、「僕は,新聞の新です。」と、僕も自己紹介した。目がクリクリと動き回る聡明な女性。 

工房まるの代表の吉田修一さん、画家の柳田烈伸さん、ケアの池永健介さんが到着。吉田さんは黒いレザーのジャケット、柳田さんと池永さんは山高帽に眼鏡姿で,3人ともとてもファッショナブル。マイクロバスに乗って,市内へ。しかし、ラッシュ時で高速道路がひどい渋滞。運転手は雑疑団並みのテクニックで4車線の端から端までを使って,どんどん河をさかのぼって行く。僕はジャワで運転を覚えたので,こういうのには慣れているけど、それにしてもすごい運転。頭上を、リニアモーターカーが凄まじい勢いで通り過ぎていった。高速の両側のビル群はスモッグにけむっている。1時間半ほどでノーブルセンターというホテルに到着。吉田さんたちは,飛行機に乗っていた時間より長くなったよう。 

播磨さんは,30年以上前から上海障碍者連合会と付き合いがあり,その中のひとりのラさんがこのホテルの支配人だったので,なにかといたれりつくせりだった。特別室に案内され,ガラスのぐるぐる回るテーブルを囲んでの食事になった。その日は,そのまま解散,就寝。僕はちょっと寝付けなかったので,小雨の降る中、ホテルの周りを散歩した。海外の初日は、いつも高ぶった気持ちになる。ヤッケのフードをかぶって、夜の上海の気配を感じにいった。ガードマンの目つき、商店のおじさんの態度,アスファルトの具合,車の飛ばし具合,食堂の窓の汚れ具合,マッサージ屋の女性の視線の粘り具合、街灯の薄暗さ,道行く人の視線の強さなどを感じながら、雨がオレンジの電灯に照らされる中を歩いた。6、7車線ある大きな道路に面して,古いアパート,タバコ屋,怪しいマッサージ店,汁そば屋などが並ぶ。ジャカルタと似た感じかな。寒いのを除けば。共産時代に建った集合住宅がなぜか懐かしく感じられた。ホテルのガードマンに柵をあけてもらって,部屋に戻って,おとなしく寝た。そういえば,ジョン・レノンの命日だったか。真珠湾開戦の日だったか。 

12月9日 
午後から,ART FOR ALLと題されたフォーラム。日中の障がいある人のアートに関する報告会。日本からは,播磨さん、岡部さん,藤井さん,吉田さんが発表を行った。中国では,障がい者のアートと言えば,聾唖者の絵や視角障害者の音楽などに限定されているとのことだった。それに比べると,日本では,知的障がいのある人のアートの取り組みが進んでいる。障がいのある人の独特のアートを商品化していくというのが,中国側の参加者の興味を引いているようだった。会場にたくさんいた聾唖者の参加者が、パワーポイントで映し出されるTシャツやマグカップになった障がいのある人の作品を盛んに撮影していた。中国側の発表で朱希さんが発表した農民の絵画はすばらしかった。学校で絵画の教育を受けていない農民が,自分たちの農村の生活や世界観を色鮮やかに描いている。会の終了後,朱希さんが農民の絵のカレンダーをくれた。来年行われる上海万博の記念グッズなので,立派なものである。しかし、農民が描いた/描かされた万博会場や都会の絵は,全く面白くなかった。 

夜は、歓迎会だった。レストランに招かれた。日本語,中国語,英語が乱れ飛んでの賑やかなパーティになった。佐久間新というのは,中国読みでは,ZUO JIU JIAN XINとなると教えてもらった。シンは、XINで同じ。体調を崩してパーティを欠席した岡部太郎さんの名前は,カンプー・タイラーと発音するようで、昼間,彼はしきりに自慢していたのだった。料理は,おいしかった。特に豚肉と皮と脂を餅米で炊いたのがおいしかった。河魚の蒸し物もおいしかったが,これはこの前の週にジョグジャで食べたカカップ(鯛に似た海の魚)の蒸し物の方が一段上だった。飲物は、1939という数字の入った老酒のぬる燗がおいしかった。 

12月10日 
9時に紀勲初等技術職業訓練学校へ。まずは、副校長と担任の先生と打ち合わせ。海外の学校でワークショップをする時には、事前に先生に対してこちらの意図を十分に説明することが大切だということが、ヨーロッパでの経験を経て分かってきたので,丁寧に行った。僕と愛ちゃんの担当は、午前の90分。まずは、二人で即興で20分ほど踊って,残りの60分をワークショップにあてるという予定だった。愛ちゃんとどこでパフォーマンスするかの場所を下見。即興するには,場所選びが重要だ。少し寒くて雨が降りそうだったが,運動場でやることにした。空気が動いているし,伸びやかな気持ちをみんなで感じられそうな気がしたからだ。10時過ぎ、愛ちゃんと運動場でパフォーマンスを始めた。障がいのある30人の生徒たち,先生,日本から来たメンバー、カメラマンが取り囲んでいる。踊りはじめてすぐ、ふっと後ろを見ると,生徒たちが数人が踊りたそうに近づいてきている。すぐに踊りの輪ができた。輪はあちらこちらへ動いたり,解散したり,また別の場所にあらわれたり、次から次へと踊りの輪が出来た。小雨が降ってきたので,みんなに中に入ろうと踊りながら合図を送った。ちょうど予定時間の20分くらいだった。 

残りの60分は,教室でいろいろとからだを動かした。17歳から25歳の生徒たちは,個性的でパフォーマンス力のある人が多かった。子供よりも,これくらいの年になるといろんな経験を経て,存在に味が出てくる。その存在感を生かしたダンスを引き出しすのが大切だ。最後は,僕が波になって,みんなが海になったり,海の生き物になったりした。11時30分に終了。 

昼ご飯は,職業訓練学校なので、生徒たちが作ったピザ。卒業すると、大手ピザチェーンに就職するメンバーがいるそうだ。それから、水餃子風ワンタンのスープ。どんぶりに10個以上入っている。ごちそう続きだったので、素朴なメニューがうれしい。ピザも水餃子もおいしかった。 

昼からは,山野さんと柳田さんのグループに分かれての美術ワークショップ。柳田さんは脳性麻痺があり,からだの制御が効きにくい。常に首や手、上半身に力が入っていて,からだが律動し続けている。彼のすばらしい絵は見たことがあったので,どうやって描くのか興味があった。柳田さんは、ペアを作って、お互いに顔を描くというワークショップを行った。床に座った柳田さんは、上体を前後左右に揺らしながらも目はしっかり相手を捉え,からだを立体的にスキャンしていく。これだという構図と表情を探っているようだ。やがて、筆記具を手に持って,左手が動き始める。震えながら紙の上を,時には紙のない所まで動きながら,あちらこちらに動いていく。時折,筆記具が紙にあたると、繊細な線が無数に生まれてくる。そして、ここだ、という瞬間に,力強い迷いのないしっかりした線が紙に刻み込まれる。目,鼻,口が、そうでしかない確かさでたち現れる。 

http://d.hatena.ne.jp/rakukaidou/20080201/p1 
http://www.ableartcom.jp/imglist.php?ano=054 

柳田さんの部屋を中心に見たので,山野さんの方はちらっと見るだけだったが,時折気合いを入れる声を上げながら,一心に筆を動かし続けていたようだ。中井さんが,参加メンバーの特徴を見ながら,きめ細かいアドバイスを送っていた。山野さんの絵を描く姿に,だんだんと風格が備わっているように感じた。 

http://www.ableartcom.jp/imglist.php?ano=004 

12月11日 
今日もどんよりしている。上海へ来て,太陽を見ていない。どころか雲も見ていない。ずっとスモッグが立ちこめているのだ。午前中,静安地区にある陽光の家総合福祉センターへ。バスの中では,時折ギギギギと音が聞こえる。マイクロバスの運転手がダッシュボードに、小さなプラスチックケースに入れてコオロギを飼っているのだ。市内の中心部へ。8万人収容の巨大なスタジアムや美術館、マンション群,デパート,ショッピングセンターを通り過ぎる。やっとテレビで見るような上海へ来た感じ。少し落ち着いた界隈へ入ると、マイクロバスは真新しいビルの前に止まった。正確に言うと,ビルは古いんだけど,博覧会のパビリオンのようにきれいにリフォームされているビルの前。耳から細いヘッドマイクをつけた170センチの美人コンパニオンが迎えてくれる。横には,同じく170センチの先輩がサポートというかチェックしている。黄緑色のオブジェやサインボードに書かれた施設のコンセプトを説明していく。播磨さんがつたえ続けた理念が多いに反映されている。エレベータで階を上がっていく。来年の万博に向けて,上海では障がい者の問題への取り組みが進んでいるという。昨日の職業訓練学校もこの陽光の家も、モデルケースなんだろう。上海中で一番いい所なんだろう。播磨さんや岡部さんは,なんども上海へ来ているので,もっといろんな所を見せてもらっているとのことだ。中国での障がい者の立場はまだまだ悲惨で,施設や学校へ来られているのは、軽度で比較的裕福な家族の子供とのことだ。 

3階の部屋へ上がっていくと,障がいのある人たちが部屋の中で作業をしていた。鳩目ホックを台紙にはめる作業。プチプチと1枚に100個ほど留めていく。各自には,能力に応じてノルマが決められているようで,仕上がり具合を検品し,個数を数える係の人間がいる。播磨さんがしゃべりかけてきた。「こういう作業では,誇りを持てないんです。」僕は,通訳の仕事で刑務所の中へ行くこともあるが,同じ風景である。もちろん、工場での流れ作業など、一般の人でも単純作業に従事している人は多い。僕もそんな仕事をしたこともある。しかし、そこでも,僕たちは懸命に創意や工夫を見いだし,自分の作業になにがしかのやりがいを見いだそうとするし、その仕事が社会のために役に立っていると実感することもある。 

播磨さんの希望は,障害のある人,そして彼らに関わる健常の人も、アートによって,人間としての誇りを回復しようということだ。この施設にも,障がいのある人によるアートは展示されている。聴覚障害の人たちの絵は確かにすばらしい。しかし、アートへの取り組みがあまりにもステレオタイプ化している。作風も非常に似通っている。ましてや知的障がいの人のアート作品は全くないのだ。鳩目ホックの横部屋では,マスクの袋詰め作業が行われていた。 

午後からは観光。昼食時に,伊藤愛子さんが体調を崩したので,急遽最寄りのホテルへ駆け込んだ。北野さんと中井さんが看病についた。僕たちは,豫園や新天地に行った。そして、最後の晩餐。上海側は,フォーラムの司会をした周新建さんや上海障碍者連合会国際部のゴッドマザー的な沈立群さんたちが参加してくれた。途中で,岡部さんと沈さんが抜けて,愛ちゃんを病院へ連れて行った。僕は,周さんに僕のワークショップの感想を聞いてみた。周さんはダンサーでもあるのだ。「あなたのワークショップはとてもおもしろかったけれど、あれはダンスではないと思います。」という感想だった。僕は,「あなたのいうダンスとは、どういうものですか。」と聞き返した。周さんにとっては,舞台の上で何人もの人が振りを合わせて行うのがダンスということだった。 

僕は,僕なりのダンス観をじっくりと、まずはブンセイさんに説明した。伝統のこと,ダンスにおける自由のこと,即興のこと,障がいある人の表現の可能性のこと,そして現代の社会においてそういった表現がどういう意味を持つかっていうこと。ブンセイさんは目をクリクリさせながら,僕の話をしっかり聞いてくれて,それを目にも止まらぬ早さでペラペラと周さんに説明しはじめた。今回のフォーラムに備えて彼女は,岡部さんたちとのやり取りを通じて、すでにいろいろ勉強して,興味を持ってくれていたので、かなり理解してくれているようだった。 

次第に周さんの顔が変わりはじめた。たぶん、すぐには理解してもらえないだろうけど,次へつながる手応えは感じた。「あなたがワークショップを通じて,自由を探そうとしていることは分かりました。」と笑顔で言ってくれた。 

病院へ行った愛ちゃんは大事にいたらずにすんだようだった。 

12月12日 
4時30分起床。6時前にホテルを出て空港へ向かった。早朝なので,1時間弱で着いた。5日目になって,はじめて陽光が射した。青空は見えなかったが,雲の向こうに太陽があるのが感じられた。

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