2013年1月23日水曜日

終わりの始まり (2008/02/08)


1月27日に、インドネシアの第2代大統領であったスハルトが亡くなった。僕が留学を始めた時、スハルト大統領は任期が25年を超えて、絶頂期にあった。その時のことを少し思い出した。 

1995年8月21日 
夕刻、ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港に着いた。出口に、教育文化省の口髭をたくわえた役人が迎えに来ていた。別便でオーストラリア人ふたりもやって来るというので、ロビーで少し待った。全員がそろうと、バスに乗せられ、宿舎に連れて行かれた。部屋は、オーストラリア人の男性と相部屋だった。スーツケースに、シド・ヴィシャスのステッカーが貼ってあった。 

朝、子供達の声で目が覚めた。ドアの前で、子供達が掃除をしていた。宿舎は、小学校の一室だったのだ。オーストラリア人ふたりと僕は、片言のインドネシア語とつたない英語で意思疎通をした。とにかく腹が減っていたので、外へ出て、リンゴとビーフン・ゴレン(焼きビーフン)を買った。昨日の役人によると、僕たちは教育文化省に行かなければならないようだった。小学校に張ってある地図でなんとか現在地を確認し、どうにかバスでジャカルタの目抜き通りにある立派な役所に到着した。僕たちは、インドネシア政府から奨学金をもらって留学しに来たのだった。 

留学することになったが、インドネシア語に不安があったので、出発前に、ジャカルタで行われる1週間のインドネシア語特訓コースに申し込んでいた。先生は、文学者であり、大阪外国語大学の教官だったアイプ・ロシディさんの娘のティティスさんだった。ティティスさんは、聡明快活で、日本語がペラペラで、授業はとても楽しかった。1週間のジャカルタ滞在中は、ティティスさんの友人宅にホームステイした。そこには、僕と同年代の息子がおり、何かと面倒を見てくれた。 

夕食後、部屋でよく話をした。ドアを閉めた薄暗い部屋で、彼は声を潜めてスハルト大統領の批判を始めた。不正蓄財などに関してである。前屈みになり、本当に聞かれたらはまずいと本気で声を潜めた。目がクルリと光っていた。 

今では、考えられないが、つい10数年前まではそんな社会の雰囲気だった。それから3年、インドネシアはアジア通貨危機に巻き込まれ、暴動が頻発し政治も混迷していた。留学生活を続けていた僕は、1998年5月20日、大きなデモが予想されていた日に、バリ島へ避難した。そしてその翌日、スハルト大統領は失脚した。 

1998年8月20日、丸3年ぶりに日本へ一時帰国した。関西空港に到着すると、目眩のするような違和感に襲われた。未来世紀に降り立ったようだった。僕のジャワでの留学生活は、スハルト時代の終わりの始まりの時期だったのだ。良くも悪くもインドネシアの古い時代を体験出来たのかもしれなかった。 


留学中、インドネシア芸術大学と共に、プジョクスマン舞踊団でも舞踊を学んだ。そこで数多くの舞台に立たせてもらった。その大学も舞踊団も、2006年5月27日に起こったジャワ島中部地震で大きな被害を受けた。僕は、舞踊団を支援するグループを立ち上げた。建物、衣装、楽器に甚大な被害があった。しかし、再建するには、いろいろな人間関係や利害関係を調整する必要があった。地震から1年半以上経って、建物の主要部分が再建された。ひとまず様子を見に行こうと思う。明日から日曜日まで、ジャワへ行って来ます。 

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