2013年1月23日水曜日

闇に染み入るガムランの音 (2008/02/18)





2月8日 
朝から、イウィンさんのお父さんがやってきた。 

おはようございます。こちらから伺わなくてすみません。 

Tidak apa-apa! (大丈夫、大丈夫) Bagaimana Buna?(ブナはどうしている?) 

元気ですよ。 

タマンシスワ通りにある我が家の近くのネットカフェへ行く。日本語がうまく読めない。ところどころが伏せ字のようになっている。店に1台、26番のパソコンだけが日本語を読めると、後で分かった。 

昼前に、ISI(芸術大学)の音楽心理学のジョハンさんがやってきた。僕は、震災被害を受けた芸術家を支援するグループ「ガムランを救え!」にも参加しているが、彼は、それと連携するグループ「Forum 7」の代表をしている。震災2周年の5月27日に、何が出来るのかを相談した。激甚地区であったバントゥル県にある小・中・高校の校舎がようやくこの1年で再建され、それを祝ってのイベントが同じ県内にあるISIを中心に盛大に行われる。「ガムランを救え!」のメンバーは、5月にジャワへ来て、被災した子供達や芸術家とのワークショップやコラボレーションをやりたいと計画中だが、バントゥル県以外の場所も候補に挙げた方がいいだろう、ということになった。 

家で、ジョハンさんと一緒に、鶏の照り焼き、厚揚げとカチャン・パンジャン(ささげ)の炒め煮の昼食を食べた。ジャワではシンプルな家庭料理が本当においしい。 

昼からは、ブ・ティア先生に会うのと、プンドポを見るために、プジョクスマンへ出かけた。B・カタムソ通りを東へ入ると、突き当たりに昔ながらのパサール(市場)がある。さらに左へ折れて、門をくぐるとダレム・プジョクスマン(プジョクスモの屋敷)に入る。屋敷といっても鍵もかかっておらず、敷地内にはたくさんの家があり、たくさんの人が住んでいる。中庭の中央には、舞踊団の活動拠点であるプンドポがある。1年半前は、柱が傾き、屋根の一部が崩落し、大きなダメージを受けていた。屋根の瓦も色鮮やかに、立派に生まれ変わっていた。再建後のプンドポは、屋根、柱、壁、柵の色が変わっていた。すでに写真では見ていたが、ちょっとギョッとした。昨日は夜だったので、色まではよく分からなかったのだ。 

プンドポの裏にあるブ・ティア先生のお宅におじゃました。ほぼ元の姿に戻っていた。震災後は、半壊した自宅で寝ることが出来ず、長い間テント暮らしだった。雨期には、ひどい雨が降るので、大変だっただろう。ひとり息子のアリン君もやって来て、舞踊団の定期公演など、これからのことについて話し合った。そこへ、JHS(ジョグジャ・ヘリテージ・ソサエティ)の代表であるシタ・ラレトノさんが、一緒にプンドポを見るためにやって来た。 

震災後、JHSは、ダレム・プジョクスマン全体の完全な修復には、70億ルピア(約8,000万円以上)が必要だと試算していた。また、別のグループは、文化財の修復をするために記録保存が必要だと、屋敷のあちらこちらに番号や記号を書いたテープを貼っていた。しかし、結局、70億ルピアなんて誰も集められなかったし、テープを貼った人間は、それ以降、2度と現れなかった。 

JHSは、もちろん助成をするという約束をしたわけではなく、単に案を示しただけで、シタさんは僕の活動のことも応援してくれていた。シタさんと共に、ブ・ティア先生に説明してもらいながら、プンドポを見学した。 

夕方になってきたが、まだ何人かの家を訪ねたかった。日が沈む頃、ISIの近くに住む舞踊の先生、スパドモさんの家に到着した。ISIの近くは激甚地区で、多くの集落が全壊だった。彼の家は半壊だったが、息子と共に崩れてきた隣家の壁の下敷きになった。ふたりとも一命は取り留めたが、息子は大腿部を骨折し、僕が前回訪れた時は、起きあがることも出来なかった。 

ドアが閉まっていたので、窓から応接室を覗くと、スパドモさんが椅子に腰掛けて、静かに佇んでいた。目をつぶって、柔らかな顔をしていた。祈っているのだろうか。裏口へ回って、奥さんを呼び、再び表玄関へ回った。静かに目を開けたスパドモさんと再会の握手をした。 

ああっ、 

と、自分の服に目をやり、すまない、と奥へ入っていった。夕方の忙しい時間に、急に訪れるのは、本当は常識に反するのだ。申し訳ない・・・。Yシャツに着替えて出てきて、もう一度握手をした。こちらの無礼を詫びたが、スパドモさんも奥さんも本当に喜んでくれた。息子さんも回復して歩けるようになったそうだ。しかし、少しだけ足に障害が残り、スパドモさんはそのことを受け入れるのに苦しみ、前より祈る機会が増えたと教えてくれた。そう語る彼の顔は、以前よりずっと深い静けさをたたえていた。しばらくすると、奥さんが、鶏のスナズリ、タマゴ、白菜の入ったミー・クア(汁麺)を持ってきてくれた。夕食時に突然やって来るなんて、本当に非常識な客である。 

タマンシスワ通りの我が家へ戻ると、マルガサリのユリちゃんとヒカリさんがガムランの練習をしていた。ふたりとも留学中である。ヒカリさんは、我が家に下宿している。しばらくすると、現代音楽の作曲家であるアスモロさんがやって来た。ジャワでは誰も弾けないような難解な作品を書く孤高の作曲家である。もう10年以上のつきあいになる。4人で、家から車で5分のパクアラマン宮殿へ出かけた。35日に1回あるガムランの演奏会の日だったのだ。この演奏会は、RRI(国立ラジオ局)でも生中継される。演奏会は9時に始まるが、その前に少し話をしようと「Forum 7」のジョハンさんとシスワディさんと待ち合わせをした。1時間ほど、5月の予定に関して話をした。 

演奏会は、9時からたっぷり3時間続く。演奏会と書いたが、見に来る人はほとんどいない。この日も、僕たち4人、ジョハンさん、西洋人2名、インドネシア人数名だった。それでも演奏家は正装し、王宮の立派なプンドポで演奏が行われる。最初は降り出した雨の音で何も聞こえなかったが、気づくと雨は上がり、ガムランの音が闇に染み渡っていた。なんと贅沢な時間か。 

12時ちょうどにガムランは終わる。4人でもう少し話をしようと、我が家へ引き返した。日本から持ってきたとっておきの地酒を開けた。ちびちびと飲みながら、朝方まで、ガムランのことや、留学生活のことなどいろいろと話した。 

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