2013年1月24日木曜日

疲労?食べ過ぎ?プレッシャー? (2008/09/09)

8月25日月曜日 

未明に寒気がして目が覚めた。お腹も下っている。何度かトイレとベッドを往復した。ジャワでは掛け布団をする習慣がないし、ブランケットのようなものも見つからない。長袖の服を出してきて、シーツの下に潜り込んだ。ブルブルと寒気が襲ってくる。 

朝早く目が覚めても、身体が冷え切った感じだ。下痢も続いている。 

昨晩、カニを食べた時、林加奈ちゃんも気分が悪くなっていた。そして、どうやら他の何人かも体調を崩しているようだった。 

僕は、ジャワへ来て体調を崩すことは滅多にない。しかし、この日は全く食欲が湧かなかった。基本的には、ジャカルタ公演の疲れと食べ過ぎだろう。そして、たぶん、ジョグジャで公演をする精神的プレッシャー・・・。 


1995年8月、本当にゼロから舞踊修行を始めた。芸術大学1年のクラスで年下のクラスメートの笑いものになりながら、授業を受けた。その後、大学でジョグジャ舞踊に関しては卒業までの単位をすべて取り、プジョクスマン舞踊団では数え切れないくらい公演に出させてもらった。日本へ帰ってからは、2000年9月に、教える側に回って、妻のイウィンさんとともに舞踊教室を開いた。 

2001年から、マルガサリで「桃太郎」の制作を始め、ジャワの古典舞踊ではない、オリジナルなダンスを作ることになった。最初の1年、2年は、まったく自由に踊れずに、もがき苦しんだ。その後、ダルマ・ブダヤとともに舞踏家の由良部正美さんと共同制作をしたり、「さあトーマス」で、障がいのある人たちと即興舞踊をくり返したりするなかで、少しずつダンスや表現をするための何かをつかみ始めた。「桃太郎」で、4年、5年と月日を重ねるにつれ、鬼のダンスが感覚として身体に入ってきた。その表現を、ジャワの先生や仲間やみんなに見てもらう。考えれば考えるほど相当のプレッシャーである。 

と、いろいろ考えながら、とりあえず、朝食はパス。 

朝、キュウちゃん、西さん、麻未ちゃん、バミオを乗せて、キジャンで公演会場であるタマン・ブダヤ・ジョグジャカルタ(ジョグジャカルタ文化センター)へ。そして、今度はウィスマ・アリスへ羽田さん、岡戸さんを迎えに行く、ふたたびタマン・ブダヤへ。照明や舞台のセッティングのためである。しかし、楽器が他の団体によって使用中で、運ぶことが出来ない。僕は強い調子で、タマン・ブダヤのスタッフにクレームをつけた。体調が悪いせいだ。少し自制しなければいけない合図だと自分に言い聞かせた。 

昼ご飯もパス。水分だけは取らねば・・・。 


1996年に、ダルマ・ブダヤがインドネシア公演を行った時、僕はジョグジャに留学中で、現地コーディネートをした。その時も公演会場はタマン・ブダヤだった。当時は、プルナ・ブダヤと呼ばれ、ガジャマダ大学の敷地内にあった。その後、マリオボロにあるブリンハルジョ市場の東側に移転した。建物自体はオランダ時代の建物で趣があるが、以前はショッピン(shopping)と呼ばれる古本屋や場末の映画館が密集した一角で、ちょっと近寄りがたい雰囲気がする場所だった。現在はきれいに整備され、広い敷地にはオープンカフェもあり、明るい雰囲気になっている。中部ジャワ地震後は今年の3月まで、プジョクスマン舞踊団が建物に付属する1階のテラスを舞踊の練習場として借りていた。そのタマン・ブダヤの広い敷地を歩いていると、ニンさんに声をかけられた。フルネームはレトナ・ニンセ、トップクラスの女性舞踊家である。ニンさんはタマン・ブダヤのスタッフで、僕は留学中、彼女に女性舞踊を習っていた。 

「マス・シン、ひさしぶり!桃太郎、明日だね。舞踊監修なんだって!明日見に行くからね!」 

うーん。とてもうれしいが、ますます胃が痛くなってくるような・・・。 


ジョグジャは、文化の町である。ガムランや舞踊はもちろん盛んだし、大学生が多いので、若者文化の中心地でもある。また、芸大があることもあり、伝統的にコンテンポラリーアートが盛んである。ヘリドノやダダン・クリスタントといった世界的に活躍する美術家も多い。そのせいで、町のあちらこちらで実験的な美術やパフォーマンスが頻繁に行われている。 

そんな開放的な空気の町だが、13年前の僕は伝統舞踊を習う一生徒として、ジャワの伝統文化のなかで生活を始めた。ジャワ舞踊とは単なる身体のテクニックではなく、生活習慣やもの考え方を反映するものだ、という教えがあり、先生たちは、舞踊を習う過程で、繰り返しそのことを強調した。僕は、それまで持っていた自分の価値観をぶっ壊すしかなかった。そして、ジャワの考え方や文化を思いっきり吸収した。そうすることによって、少しずつ舞踊が実感を伴った感覚として、身体に入ってきた。 

「桃太郎」の中のダンスは、いわゆるジャワ舞踊とは似ても似つかないものである。しかし、僕のなかでは感覚として、大いにつながっている。特に、5場の最後に登場する鬼は、ジャワ舞踊を通してたどり着いた今の時点での僕のからだのありようそのものである。そのことが、ジャワの人たちに伝わるのかどうか・・・。うーん、考えれば考えるほど、大変なチャレンジである。 


昼休憩の時に、一旦家へ戻り、夕方、イウィンさん、ブナ、バミオとともに、再びタマン・ブダヤへ向かった。 

ようやく楽器が運べるようになった。タマン・ブダヤの大ホールがある建物から会場の小ホールへと、みんなで楽器を運ぶ。しんどいので、適当に手を抜きながら・・・。すんません。 

会場に全員集合して、ジャカルタ公演の反省をふまえて、細部のチェック。マグリブ(日没)のお祈りが終わるのを待って、ゲネプロを開始する。タマゴ大王のシーンで、桃太郎役の加奈ちゃんにバースデーケーキのプレゼント。内緒にしていたので、彼女は大喜び。昨日から体調を崩していたが、だいぶ元気になっているようだ。夜になって、僕も少し回復してきた。 

ゲネプロ終了後、何人かのメンバーで、我が家のすぐ近くにある故チョクロ翁の屋敷へ出かけた。チョクロワシトさんは、ガムラン界の大御所で、長くアメリカの大学でもガムランを教えられたが、去年101才で亡くなられた。アメリカからの帰国後は、ジャワの暦で35日1回やって来る自分の誕生日であるマラム・ジュマッ・ポン(ポンの金曜日の前日の夜)毎に、演奏家を招いてガムランの演奏会を主催された。演奏会は、9時頃から日付が変わる頃まで続けられる。だれでも自由に見に行ってよく、客はガムランを聞きながら、最初はお茶とお菓子や揚げ物を、途中の休憩では食事を、そして最後には、甘いコーヒーをいただく。食事もおいしいが、ここで飲むコーヒーはとびっきりおいしい。僕はジャワにいれば、欠かさずにこの演奏会に顔を出していた。チョクロ翁がプンドポの前に置かれた座り心地の良さそうな大きな椅子に身体を沈め、ガムランの響きが立ち上がっていくのを手でゆっくりとなぞっていた姿が忘れられない。 

この日は、チョクロ翁が亡くなられて1周年の記念演奏会があったのだ。僕たちが到着したのは23時頃だったが、ジョグジャとソロの大勢の演奏家や舞踊家が談笑していた。僕も次々と出会う彼らに挨拶をして、話の輪に加わった。 

すこし食欲が戻ってきたので、庭に用意されたご飯と煮込み料理を少しよそって食べてみた。おいしかった。明日の本番へ向けて、すこし光が差してきた。 

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