2013年4月8日月曜日

ルマ・パンジャン(長い家) (2009/12/01)

11月28日 

インドネシア人の元慰安婦スハルティさんの証言、インドネシア人慰安婦問題の研究家であるエカ・ヒンドラティさんの講演,さらにインドネシアに17年滞在されて、慰安婦問題にも取り組まれている木村公一牧師の話が、大阪商工会館であった。主催は,大阪AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)。僕は、通訳として参加した。 

木村牧師による紹介の後,80歳になる車いすに乗ったスハルティさんが話をはじめた。僕は、スハルティさんの顔の真横、やや後ろに座って,通訳を始めた。通訳する時の感覚は、すこし即興で踊る時と似ている。頭をクリアにして,耳を澄まし,ピーンと集中して,インドネシア語の声を聴き取って行く。インドネシア語は,文節の固まりぐらいでどんどん日本語になって行く。文章を聞きながら、文節を組み立てながら、仮の文章を口から流していく。自分の頭を受信機にして,変換機にして,話者のことばを受け取って行くという受信機的な状態でありながら,自分が語りつつある文章の中に、矛盾点がないかがチェックされていく。矛盾点が生まれた時に,赤いランプが点灯する感じ。同時に,言葉の使い回しがきつすぎないか,弱すぎないかなども,言葉を口から出しながら、センサーをくぐらせていってチェックし、文章を完成させていく感じ。地面に杖で引っかかりながら,走っていく感じ。頭が受像機の状態になっているので,話者の感情も入ってきやすい。ちょっといたこみたい。 

スタート 

15歳の時,各村から50人供出しなければならないという日本軍の命令があると,村長代理が人探しにやってくる。学校へ通わせてやると嘘をつかれ,家族と引き離され,スラバヤへ連れて行かれる。船に乗り,3日3晩かかってボルネオ島のバリクパパンに到着する。 

ここまでの話でも,細部至る説明が加わるので,かなり長い。 

港からトラックで連れて行かれたところが慰安所だと分かり,だまされたことを知る。そして、最初の日本人がやってくる。油田の町サンガサンガからやってきた日本人のOが自分を指名し,ホテルへ連れて帰る。そして、セックスがなんであるかも知らない私が,レイプされる。1週間近く,つくすことを要求され続ける。 

スハルティさんの声が詰まる。僕も一緒だ。 

その後,慰安所に戻り、1時間にひとり,1日10時間10人に対する奉仕が始まる。(軍票が配られるだけで,彼女には1銭も支払われない。)数ヶ月たち,戦火がひどくなる。日本兵もいなくなる。慰安所は閉鎖されることになる。ジャワに帰りたいが、戦火で船はないという。とにかくバンジャルマシンのこの住所のところへ行けと,慰安所の責任者から手紙を渡される。ジャングルの道なき道を歩き始める。何日かかるのかも分からない。疲れれば,木の下で寝、体力が回復するまで2、3日休み,再び歩き出すという繰り返し。途中でダヤック人に出会うこともあり,シンコン(キャッサバ)やバナナを分けてもらう。そして、50日以上かけて,バンジャルマシンの近くの村に到着する。村の端にしゃがんでいると,やがて村人の輪ができる。部族の長の家へ連れて行かれる。バンジャルマシンへ行きたいことを告げると,長の計らいで,ゴムを運ぶトラックへ乗せてもらう。住所を運転手へ見せると,そこは立ち入り禁止区域だと言う。最後の200メートルを歩いて、ルマ・パンジャン(長い家)へ到着する。掃除夫と話し,妻の料理人に食べ物を分けてもらう。するとそこへ、ルマ・パンジャンから20人ほどの少女がやってくる。直感的に同じ境遇であることを互いに察知し,少女たちが,駆けつけて抱きしめてくれる。数日たつと,日本人のTが現れる。そして、このルマ・パンジャン(慰安所)で、再び慰安婦として,戦争が終わるまでの数ヶ月働くことになってしまう。戦後は,しばらくバンジャルマシンのレストランで働き,その後、結婚する。夫の仕事について,あちらこちら転勤する。それから数年経って,やっと故郷のジャワへ戻った。 

休憩後,エカさんが自分の活動のことを話す。30代半ばの快活な女性だ。ジャカルタの日本大使館前で最前列でデモをする姿をテレビのニュースで流されて,有名になってしまったと笑っている。その時に、インドネシア政府の社会省の汚職について抗議した姿も映っていて,その後で社会省に行った時、「あなたがあのエカだね。」と名指しされたそうだ。とってもたくましい美人。 

どうして、慰安婦問題に取り組むようになったのか,木村牧師との共著「MOMOYE  MEREKA MEMANGGILKU(モモエ 彼らは私をそう呼んだ)」,慰安婦問題の歴史,両国政府の約束によってできたアジア女性基金の欺瞞、汚職、そして現在に至るまで拉致され続けられているマルク州ブル島の慰安婦についてなどを、早口で、力強く時にはアジるように語った。 

短い打ち合わせしかできなかったので,苦労したが、なんとか通訳終了。 

14時に始まった会は、17時に終わった。 

11月29日 
近鉄電車で、名古屋へ向かった。スハルティさん、エカさん、付き添いのアヌグラさん、木村牧師、そして僕。電車の中で,昨日のスハルティさんの話を聞いて浮かんだ疑問を聞いてみた。 

50日間のジャングルでの苦難を経て,トラックで200メートル手前に下ろされてルマ・パンジャンを見た時に,スハルティさんたちは直感的にそれが慰安所であると分からなかったのだろうか。どうして、再び慰安所に自分たちから行ってしまったのだろう,という疑問である。 

木村牧師がうなった。それが悲劇なんだと。 

慰安所は,とても過酷な場所であったが,戦時中で家族から離れた彼女たちにとっては、生活の保障をしてくれる場でもあった。また、彼女たちには、権力と暴力を背景とした日本軍からは逃れられないという恐怖心もあっただろう、と。 

車内で,エカさんの著書「MOMOYE  MEREKA MEMANGGILKU(モモエ 彼らは私をそう呼んだ)」を読んだ。ここで描かれているのは,バンジャルマシンの慰安所にいたマルディエムさんだ。本には,スハルティさんも出てくる。つらい体験が描かれているが,慰安所の日常も描かれている。 

昼頃,会場の桜花会館到着。なんと皮肉にも,日本軍と縁が深い会場である。スケジュールと内容は、ほぼ昨日と同じ,僕自身は、2回目だったので,昨日よりはうまく通訳ができた。聴衆は,150人ほど。終演後,喫茶室で軽食を食べ,名古屋駅へ。スハルティさんたちはそのまま東京へ。翌日は,衆議院会館での証言だ。超ハードスケジュールである。僕は、神戸のHIROSさんの家へ向かった。あまりにズシンとくる話を聞いたので,こころのにじみを少し吸い取ってもらおうと思ったのだ。なるべく多くの人に聞いてもらって,考えてもらいたいテーマである。東京,福岡、鹿児島へ回る予定。 

アジア女性基金 
http://www.awf.or.jp/index.html 

各地での日程 
http://blogs.yahoo.co.jp/siminkjp/30551885.html 

大阪での様子 
http://87115444.at.webry.info/200911/article_18.html 

日本語読めるインドネシア慰安婦問題の本 マルディエムさんのことが描かれている 
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?author=%82%60%81D%83u%83f%83B%81E%83n%83%8B%83g%83m 

マルディエムさんのドキュメンタリー映画 
http://kanatomoko.jp/maru/mal_kaisetsu.html

2 件のコメント:

  1. バリのチャロナランの中に出て来るバロンとランダ、善も悪も持つ我々を語り部で伝える、どんないい人でも銃を持たされたら、人を殺す、強制されることでランダが登場、徴兵拒否は国賊とされた日本の歴史、徴兵拒否をしたヒッピー達、実は私もアメリカ時代に徴兵がきた、しかし拒否した、なぜ戦争に参加して人を殺さねば? 自分が人を殺さなくてはならない、自分も人に殺されると云う状況は尋常でない、ヴェトナム戦争では麻薬が配られ兵士を鎮痛し、慰安婦を与え鎮痛する。戦争が産む悲劇、拒否出来ない人の悲劇、No more fucking War !

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  2. Kikuoさん コメントありがとうございます。勇気づけられます。悲劇であることが忘れ去られようとしてますね。国の境目を越えて、人や芸術が行き来し続けることくらいはやりつづけたいです。

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