2012年12月11日火曜日

南海電車ラピート (2006/05/12)

1年ほど前、関西空港へ人を送っていった時に、ブナをつれて南海電車のラピートを見に行った。鉄人28号にも出てきそうなデザインで、電車のおもちゃの中でも一番のお気に入りだったからだ。 先日ふと思い出して、「なぁブナ、前にラピート見に行ったなぁ?」と聞いてみた。「・・・・うん。」なんだかぼんやりしている。「見に行ったやんか!」「・・・・ううん。」どうも怪しい。しばらく経って、何とも言えないはにかんだ顔で、「忘れたー!」と叫んだ。忘れていたようである。僕がびっくりして、「うっそぉ、忘れたんか!」と答えると、何ともうれしそうな顔をしている。こっちは、せっかく連れて行ったのに・・・とやや残念な思いなのに。 しかし、この「忘れたー!」といった時の顔が何ともいい。自分の記憶を辿ってみて、答えに至った実感や、単にオウム返しではないコミュニケーションの感覚がそこにはあった。パパががっかりしようが、自分で結論にたどり着いた喜び。僕ががっかりしたことにも、彼はうれしそうだった。すれ違うことによって、コミュニケーションの実感を感じたのだろう。   その後も、しばしば「見に行ったやんか!」「忘れたー!」「うっそぉ、忘れたんか!」は彼のギャグになっている。 自分で考えることの重要性。すれ違いによる、コミュニケーションの実感。心の中に発露した実感を表現する時の、ほとばしる興奮と喜び。些細な出来事ではあったけれども、刺激的な体験だった。   マルガサリの「さあトーマス」においても、オウム返しではない、すれ違いのところが重要だし、即興ダンスをする時でも、心や身体の中に発露した何かを、興奮や喜びとともに表現することは、とても重要なことだと思う。

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