2013年7月12日金曜日

可能性あり、そして、全く進歩なし (12/05/2010)

~先日遊びに来たジャワ留学が決まったやぶちゃんに話した、ジャワの先生のエピソードの続き~ 


20年近く前,ソロの郊外にあるS先生の家へ、2ヶ月間舞踊を習いに通った。風神の子である勇者ビモの飾りがある鉄柵を入ると,古い赤いバンが停まっていて,中庭にはナマズを飼っている池がある。鳩の小屋もある。横には、背の高いパンノキがあって、時折天狗のうちわのような巨大な葉っぱが勢いよく落ちてくる。少し薄暗い居間へ入ると,緑の薄いカーペットの上にガムランが並んでいる。壁には、若かりし先生が正装した写真が掛かっている。ヒンヤリとして鈍く光った床の上でレッスンを受けた。汗がタイルに滴り落ちた。犬が横切ると,先生はキックを入れる。踊りのことなんて,まだまだ何も分からなかった。先生や先生の家に下宿していた芸術高校の生徒だったN君に言われるがまま、ただ汗を流した。 

S先生といると、魔法使いのように思えた。もちろん、舞踊はうまいし、楽器もとびっきりうまい。それだけじゃなくって、ちょいとヒゲをさすれば,ジャワのごちそうが出てくるし、ウィンクをすれば,鳩が舞い降りてくる。動かなくなったバイクもちちんぷいぷいと直すし,ちょっとした病気もツボを押して治しちゃう。音楽,ダンス,動物,バイクや車,おいしい屋台,近所のおじさん,王女様,影絵芝居の登場人物、誰とだって,何とだって,ツーカーで自由自在にコミュニケーションできるようだった。まあ、こちらがジャワのことが全然分かっていなかったと言うのこともあるが・・・。でも、いまでもその印象は変わらない。こんな人になりたいと思った。 

2ヶ月の滞在は、あっという間に過ぎた。舞踊で使う盾と剣を持って,帰国した。しかし、いまだにその盾と剣を使って人前で踊ったことはない。ブナのおもちゃになっている。ジャワ舞踊は、2ヶ月習ったくらいでは何もものにならない。それでも、もっと本格的にやってみたいなあ,という気持ちがジリジリと高まった。それから少しして,日本でB先生と運命的な出会いをして,留学の決心をするが、その話はまた別の機会に。それから3年経って,僕はジャワへ留学することができた。留学中,ジャカルタに住んでいるTさんのところへ遊びに行ったとき,こんな話を聞いた。 

Tさんも、以前はジャワ舞踊を習っていて,S先生とも親しい。僕がレッスンを受けた直後,S先生のところへ遊びに行って,僕の話になったらしい。「サクマが舞踊を習いにきたんだって?どうだった?」とTさんが聞くと,S先生は「Ada kemungkinan.」と答えたそうだ。adaは、あるの意。mungkinは、ふつうは「たぶん」という意味で使うが,keとanが付けば,可能性という意味になる。「可能性あり。」ということ。うれしい言葉だった。 


留学をはじめて2年半が過ぎた頃,僕はプジョクスマン舞踊団の週3回ある定期公演にレギュラー出演するようになっていた。日本人の僕がこんなところで踊ってもいいのかな?お客さんは,外国人が踊っているのは見たくないんじゃないかな?などと迷うこともあったけど,僕はすっかりジャワ人の中に入り込んで,舞踊三昧の日々を過ごしていた。裸電球の下で,すり切れて湿ったビニールのござの上に座って,メイクをし、緑色のカネ製の机に用意された衣装を身につけた。前奏が始まると,薄暗い楽屋裏で、革のかぶり物を1回ギュッと締め直して,プンドポ(舞台)へと静かに歩いて進んで行った。 

そんな時期,ある日プジョクスマンのプンドポで,若い舞踊家が集まって練習していると,N先生がやってきた。小柄で柔道家のようにがっしりとしているが,機敏な身のこなしをする芸術高校の舞踊科の先生。14世紀に栄えたパジャパヒト王朝の宰相ガジャマダのような、太陽の塔の彫刻のような、目と唇が力強い表情の人、今は芸術高校の校長先生になっている。そのN先生がプンドポから少し離れた階段に腰掛けて,何人かで談笑している。しかし時折,ギラリと目が光っている。こっちの練習が一段落付くと,僕の方へやって来て,言った。 

「Mas Shin, akhir-akhir ini kok tidak ada kemajuan sama sekali? (マス・シン 最近,なんで全く進歩がないんだ?)」 

かなりきつい調子だった。目の前が真っ暗になった。こんなことを言われたのははじめてだった。ジャワ人同士でも,舞踊の先生は教えるために生徒のからだに触れる時,「Maaf, ya(ごめんなさいね)」と言ってから、指先で肝心の骨のところをちょこっと押す。そんな温厚なジャワの先生が,こんなきつい調子になるのはとても珍しいことだ。 

何日もこの言葉が頭をグルグル回った。それから、1年近く経っただろうか。プジョクスマンのメンバーで芸術大学の学生だったA君の卒業祝いのパーティが,プランバナン寺院近くのA君の実家であった時,N先生を含めて3,4人の輪ができて,ゆったりとしたおしゃべりの場になった。ジャワの田舎の家のヒンヤリとした床に座って,甘いコーヒーを飲みながら,茹でピーナッツの皮を剥く,丁字タバコの甘い匂いが漂う。N先生は,すっかり僕をジャワ舞踊の仲間として感じ始めているような接し方をしてくれた。とてもうれしかった。あの時に言葉は、そういうことだったのだ。もう、お客さんとしてではなく,本気で舞踊をする仲間として接するよ、そういう叱咤激励だったのだろう。 

本気で自分を信じてやれば,そこには可能性がある。しかし、その目指す道はそんなに簡単なものではない。

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